東京高等裁判所 昭和33年(う)745号 判決
被告人 小林力
〔抄 録〕
所論は要するに原判決は事実を誤認するものであるということに帰する。
よつて按ずるに、原審における証人劉善光、同河野洋子、同島津紀子の各尋問調書、原審第三回公判調書中、証人日野原信吾の供述記載及び被告人の供述記載(貨物自動車が駐車していた事実を認識していなかつた旨の部分)、原審第五回公判調書中証人齊藤重治の供述記載、医師日野原信五の劉善光に対する診断書、当審における証人劉善光の尋問調書、鑑定人萩原靖助の鑑定書、被告人の検察官に対する昭和三〇年一二月六日附供述調書、及び司法警察員に対する供述調書、司法警察員の実況検分調書、原審検証調書、当審検証調書を綜合すれば、被告人は京王帝都電鉄株式会社の自動車運転者であるが、昭和三〇年九月一八日午後五時四〇分頃、小雨の降る中を右会社の乗合自動車を運転し、東京都渋谷区幡ケ谷原町八一三番地附近甲州街道を道路の中心線寄り即ち高速車道路の部分を代田橋方面から新宿方面に向け時速三十七、八粁の速度で進行中、同街道から中野方面に至る丁字路分岐点に存在する交通信号柱から約八四米七五の地点にさしかかつた際、その左斜前方約一一米八〇の低速車線上を劉善光(当時三〇才)が後部荷物台に河野洋子を腰掛に同乗させて軽自動車(スクーター)を運転進行しているのを認めたが、その時なお前方約五〇米の幡ケ谷原町八一三番地並木菊太郎方前車道の地点に歩道寄りに小型貨物自動車が駐車していたところ、被告人は業務上の前方注視義務を十分に尽さなかつた為、これに気付かず、右小型貨物自動車の駐車している地点の辺りで劉善光の軽自動車の右側を追い越す結果になることを予測し得べかりしにも拘らずこれを予測せず、従つて、劉善光の動静に十分なる注意を為さず、これに対し自己が運転する乗合自動車の進行を知らせる為、両者の距離が約八米六となつたとき、只一回警笛を吹鳴したのみで、同人が自己運転の乗合自動車の進行に気付いたものと軽信して、その後は警笛を吹鳴せず、又前方のみを注視して、左側劉善光の動静を注意せず、漫然これを追い越すべく進行した為、約五〇米進行した際、乗合自動車の進行に気付かなかつた劉善光が、その前方に駐車する小型貨物自動車を避けるべく低速車線上から右方に把手を切つて道路中央寄りに出て来たのを発見せず、為にこれを避譲する措置をも講ぜず、そのまま進行を続けた為、乗合自動車の左側車体を劉善光の右肱部に接触せしめ、次で乗合自動車左側ステツプ下部を軽自動車の右ハンドル支柱の基部に接触させ、因つて劉善光を地上に転倒させ同人に対し治療約三週間を要する両側膝関節部打撲傷等を蒙らせた事実を認め得るのである。原審並びに当審取調の証拠の内右認定に反する部分は、これを信用するに足らないものであつて、他に所論事実を認めて右認定を覆すに足る証拠は存在しない。しかし乍ら原判示事実中被告人が原判示の如く自己が運転する乗合自動車の左前方約一五米の小型貨物自動車が駐車している地点で、軽自動車の右側を追い越すことになるものと判断したとの点は、これに照応する被告人の検察官に対する昭和三一年二月二日附供述調書中、自己の前方に貨物自動車の駐車していることは、その前方約一五米の地点に来て始めて発見した旨の供述記載は、原審第三回公判調書中の被告人の供述記載、被告人の検察官に対する昭和三〇年一二月六日附供述調書及び当審公判廷における被告人の供述に対比すれば、到底信用するに足らないものであり、他にこれを確認するに足りる証拠は存在しないのである。
原審並当審における被告人の公判供述によれば前認定の如く右小型貨物自動車が駐車していたことを現認していないことはまことに明白なのである。
しからば、原判決は右の点において事実を誤認したものと認めざるを得ないのである。
しかし乍ら、被告人がその前方に駐車している小型自動車の存在に気付かなかつたということは、原判決援用の証拠によつて認められる本件現場の道路の状況及び当時の交通状況(車道の幅員は約一七米、代田橋方面から新宿方面に向つて、緩い上り勾配となつていた右小型貨物自動車の駐車していた地点で勾配は終つていて、前方の見透を遮る障碍物は存在せず、車馬の交通は輻輳していなかつたのである。)に照せば、被告人が業務上の前方注視義務を十分につくさなかつた結果であることは明白である。そして本件事故は所論のように劉善光に避譲義務違反があり又同人の不注意で被告人運転の乗合自動車が直後に迫つていることを気付かなかつた点に過失があつたとしても、被告人が不注意にも右小型貨物自動車の駐車していることに気付かなかつた結果、劉善光の軽自動車が右小型貨物自動車を避ける為に低速車道から高速車道(道路中央寄)に出て来ることを予見せず、従つてこれを追い越す際にその動静を注意して、これとの衝突を避ける為の万全の措置を為すべきであるのにこれを尽さなかつた業務上の過失の結果であることが明瞭であるから、結局原判決の右程度の事実誤認は未だ判決に影響を及ぼさないものというべきである。要するに論旨は理由がない。
(山本謹 渡辺好 石井)